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黄河は,西は昆侖から流れ出て東は大海に注ぐ,中国第二の大河であり,世界に名高い大河である.その源流は青海省巴顔喀拉山北麓の古宗烈盆地にある。そこには数多くの小さな湖と深い草原の中から湧き出た清泉がある。ここから流れ下って,幾千幾万の渓流や大小の河川を合流して澎湃たる大河となる。その万里の行程の中で,青海・四川・甘粛・寧夏・内蒙古・山西・陝西・河南・山東の9つの省を過ぎ,全長5,464キロメートル,流域面積は75万平方キロに達する。
黄河の上流は甘青(甘粛-青海)高原,中流は数十万平方キロに及ぶ黄上高原,下流は広々とした華北大平原である.地質・地形・気候・植物分布は異なるが, いずれも非常に豊かな自然の資源があり,大部分の地域は農業や牧畜業の発展に適している.考古学の成果が証明するように,今から百万年以上も前から,人類は黄河流域の土地で労働し,生息し,繁殖してきた。
人類歴史の第一幕は旧石器時代である.黄河流域の旧石器文化遺物は非常に豊富である.
黄河中流域の山西省苪城県西侯度において,百万年以上前,前期更新世晩期の人類文化の跡が発見され,打製石器,鹿の角などで作られた骨角器, さらに焼かれた痕跡のある哺乳動物の骨骼の化石などの文化遺物が得られた.
陝西省藍田県公王嶺と陳家窩において, 原人の頭骨・下顎骨2個・歯の化石及びその文化遺物を含む中期更新世に生活した「藍田原人」の化石が発見された。古人類学者の研究の結果,公王嶺人は30歳過ぎの成人で,女性かもしれない.陳家窩人は老齢の女性である.この二人の原人の体質形態は比較的原始的であるが,彼女(彼)らが使用していた打製石器はすでにある程度進化していた。このほか粉末状の炭粒が発見されたことから,すでに火の使用を知っていた可能性もある.
公王嶺・陳家窩のほか, この区域の渭南・臨潼・西安附近の20余の地点からも, 同時期の文化遺物が発見された.当時この一帯には藍田原人が労働し生息していたと思われる.
このほかにも,山西・陝西・河南3省の多くの地点で旧石器時代文化の遺跡と遺物が発見された。
顕著なものは山西省襄汾県丁村で発見された,今から約10万年前の旧石器時代中期の文化遺物である。「丁村人」の形質的特徴はすでに近現代人に近く,そのシャベル形の門歯は現代モンゴロイドの特徴にほかならない。これは黄河流域がモンゴロイドの生れ形成されてきた重要な地域であることを示している.
旧石器時代晩期の人類活動の足跡は,黄河流域ほぼ全域に及んでいる。すでに考古学者は黄河上下流域の,青海省治多県,甘粛省環県・慶陽県・鎮原県,寧夏回族自治区霊武県水洞溝と薩拉鳥蘇,内蒙古自治区呼和浩特市東郊大窯村,陝西省藍田県澇池河溝,山西省朔県峙峪・沁水県下川,河南省安陽市小南海・新蔡県諸神廟,山東省沂源県・新泰市鳥珠台などで, この時期の文化遺跡を発見した。その年代の下限は今から2,3万年前である。
百万年以上を経た黄河流域の旧石器時代文化を通して見ると,古人類の骨格の化石にしても,石器にしても,独自の特徴をそなえ,かつ前後の異なる段階の時代との間に明瞭な連続性と継承関係が見られる。
山西省朔県峙峪の旧石器時代晩期遺跡から,石鏃と皮革の加工と関係があると思われる細石器多数が出上した。当遺跡の年代は,測定によれば今から28,700年以前である。石鏃の出現は,当時の黄河流域の住民が物体の弾力と人の体力を結合して,一定の射程を持った弓矢をすでに発明していたことを物語る.弓矢の発明は人類の生産手段改良の重要な一里塚であった.狩猟の能力をおおいに高め,狩猟の内容を広げ,狩猟を当時の社会の主要な生産部門たらしめたのである。峙峪人と大体同時期の北京周口店の「山頂洞人」と広西柳州の「白蓮洞人」は,衣服などを縫う骨針及び骨や石等を素材として作った装飾品をもっていた.以上のことから, この時期の黄河流域の住民は,道具の改良と物質的な富の増加にともなって,一応食料が腹を満たすことができるようになったうえで,衣服を縫って身体をおおい,装飾品で身を飾ることを始めた。
黄河の大地が供する衣食の源は,その子孫たちによりますます多く発見され利用されるようになったのである。
人に適した地理的環境,豊かな自然の資源のおかげで,今から一万年前にはすでに黄河上下流域に多くの原始部族が分布していた。彼らの遠古の歴史は,かなりの部分が神話と伝説の形をとって,古い文献の中に残されている.
伝説では最初に炎帝,号して神農氏が現われた.炎帝部族の活動した場所は渭河流域から黄河中流域に至る一帯である.伝説によれば,炎帝は耒耜(すき)の作り方を人民に教えて農業を発展させ,薬草で病気を治療した.炎帝の後裔の一人である共工氏は水害を治めんとしたが失敗し,彼の息子が治水に成功し,社神として奉られたという。
伝説では,黄河下流一帯に活動したのは太白+皋部族である。太白+皋は伏義氏と号した。彼は八卦を作り,網を編んで魚を取ることを住民に教えたといわれる。
黄帝についての伝説はもっと多い.黄帝は有熊氏または軒轅氏と号した。黄帝部族は炎帝部族とともに,黄河下流一帯に活動した蚩尤を酋長とする九黎部族との間で,密接な交渉を持ったが,戦争も行ったと伝えられる.黄帝は最強であったがために,各部族によって中原地方の部族連盟の首領に擁立された。
伝説によれば,黄帝時代にすでに多くの発明創造がなされた。宮室の建造,車船の製造,五色の衣実の縫製,音律・医学・数学・暦法の発明。黄帝の妻螺祖の養蚕,糸繰り,織物の発明.黄帝の史官倉頡による文字の発明,等々.さらに「黄帝は首山の銅を採り,鼎を荊山の下に鋳た」,蚩尤は「金(青銅のこと.黄金ではない)を以て兵器を作った」といわれ,彼らは金属精錬の発明者とされる.
まさしくこれらの理由によって,黄帝は中国原始文化の集大成者,華夏族の始祖として崇められたのである.
歴史発展の視点から見ると,伝説時代はおおよそ今から5,6千年から4千年ぐらい前であろう。考古学においては,この時代は新石器時代の中後期に相当する.
1921年,スウェーデンの考古学者アンダーソン(J.G.Andersson)は河南省澠池県仰韶村で新石器時代の文化遺跡を発見したが,そこからは胎土が紅く, 内外ともに磨かれ,表面に彩色を施した陶器が出土した。彼はそれを青銅器時代以前に中国内に生まれた特殊な一文化と認定し,「仰韶文化」と名づけた.
60年以前から, とりわけ新中国成立後30余年来の中国学者の仕事の結果,すでに発見された仰韶文化遺跡は千カ所を超える。分布範囲は黄河中下流域の6,7の省にわたる広大な地域に及び, さらに仰韶文化より遅れる龍山文化の遺跡が大量に現われた。仰韶文化が発見されたあと,黄河上流域の甘粛・青海地方では馬家窯文化と斉家文化が発見され,下流地方では大汶口文化と龍山文化が発見された.現在のところ,中国各地で発見された新石器時代文化遺跡は総数7千力所以上ある。そのうち,黄河流域には最も集中しており,発見も豊富で,原始文化の様相を理解するうえで,また中国文明の起源を探るうえで,多くの貴重な資料を提供している.
前期新石器文化は,近年,黄河流域の河南省新鄭県裴李崗・河北省武安県磁山(古代黄河は今の河北省を流れていた),陝西省華県老官台・甘粛省秦安県大地湾・山東省滕県北辛など数十ケ所で発見されている。
それらに共通の特徴は,原始農業と牧畜業の経済がすでにある程度発達していたこと,比較的安定した集落が現われたこと,陶器焼成・紡績などの原始的な手工業がすでに生まれたことである。これら遺跡の年代は14c(放射性炭素14)年代測定の結果によると, 今から約7,8千年前である。これら原始文化のにない手が黄河流域の原始農業文化の源を開拓したのである.
新石器時代中期から,黄河流域では比較的発達した鍬耕による農業経済がはじまった。龍山文化の時期に至ると,農具の改良,耕作技術の進歩にともなって,農業経済は著しく発展した。発掘では,精緻な石器と骨器が出土するとともに,双歯の木耒(すき)を使用した痕跡が発見される.収穫道具は以前に倍する増加を見せ,石刀のほか,石鎌,蚌鎌(貝のかま)が普遍的に使用されていることは,農作物の作付が大幅に増えたことを示している.食糧貯蔵用の穴倉は数量も増え,容積も大きくなり,食糧を入れる大型陶甕が出現し,村落と墓のなかからも大量の穀物が発見された。
注目されるのは,人々が穀類で酒を醸造することを始めたことである.山東大汶口文化の陶器の中には,すでに一定数の酒器がある。例えば,大汶口遺跡出上の陶器1,015点中,酒器が268点,なんと26.4%も占めている.莒県陵陽河6号墓では数十点の酒器が発見されたほか,酒の醸造と関係のある器物一一発酵用の大口尊,濾過用の陶缸,酒を受ける陶鉢,酒を貯蔵する陶甕などが出土した.このことは穀物が当時人々の基本的な生活の需要を満たしたうえに, さらにいくらかの余剰がでてきたことを物語る。
農業生産が発展してできた副産物は,家畜の飼育に条件を整えた。山東省泰安市大汶口文化墓地の3分の1の墓に豚の頭や下顎骨が副葬されていた。前期龍山文化に当たる河南省陳県廟底溝二期の26の灰坑中から, 大量の鶏・豚・犬・羊・牛の骨が発見された。甘粛省・青海省の馬家窯文化と斉家文化遺跡からも似たような発見があった。このことは当時家畜の飼育がすでに相当の発展をしており,そのうち養豚が首位を占めていたことを物語る。
製陶業が重要な手工業部門であることは言うまでもない.黄河流域の新石器文化遺物のうち,陶器がもっとも特徴的であり,黄河遠古の先祖の知恵と創造力を最もよく表わした作品である。陶器の種類と数はたいへん多い。青海省楽都県柳湾墓地だけでも,完全な彩陶が1万余点も出土しており,世界的にも珍しい。
陶器には彩陶・紅陶・白陶・灰陶・黒陶の区別がある。異なる文化・異なる文化類型の間には, 器形・色彩・文様装飾などの面で頭著な違いがある.おおまかに言えば,前期の器形と文様装飾は比較的簡単で,泥質紅陶が主である.中期には器形の種類が増え,彩陶も数を増し,文様が複雑かつ変化に富む.後期になると,彩陶はまれになり,文様も単純化し,灰陶が主となる.実用的工芸美術品と呼ぶにふさわしい陶器は少なくない。とりわけ彩陶は図案が絢爛多彩,文様が多様で,多くは変化に富んだ幾何学文,次いで植物や動物の文様である.それらは自然現象と日常生活の描写であるとともに,その抽象でもあり,大自然と生活に対する人々の熱愛と豊かな想像力をよく示している。河南省臨汝県出上の紅陶彩絵鸛・魚・石斧文缸は1羽のこうのとりが1尾の魚をくわえ,傍に斧が1本立っている絵が描かれている。画面は大きく,技法は細かく,内容豊かで,彩陶に描かれた絵の傑作である。4千年前から轆轤成形の技術が用いられたことにより, きちんと整った形態の陶器が多く出現した。そして山東龍山文化においては,かたを使って,大体の形を作り,その後に轆轤を用いて精巧な仕上げをしたので,薄さ0.5ミリの「卵殻黒陶」が出現した.出品した卵殻黒陶 はめこみ高柄杯,黒陶 双耳杯などのような「漆のように黒く, 鏡のように明るく, 紙のように薄く, 磁器のように硬い」胎上の薄い黒陶は, 原始社会後期の人類の製陶工芸の最高水準というに足るものである.
黄河流域の住民はこの時期に治金術を発明した。山西・河南・山東の龍山文化,甘粛斉家文化では, 銅製, 青銅製の小型の銅器が発見された。
冶金技術の発明と金属工具の使用は,生産力の水準を高め,生み出された富は日増しに増え,商品交換が始まり,私有財産はしだいに増加し,貧富の分化は激しくなった.氏族の部落の中心地区に, 自分達の生命財産を防衛し保護するために堡塁を築くことが始まった.この時期に当たる堡塁がすでに山東省寿光県,河南省登封県告成王城崗・淮陽県平糧台,内蒙古自治区涼城県老虎山・包頭市阿善などの龍山文化遺跡で発見されている。
おおよそこの時期に、社会生活・労働・交際の必要性から,思想と言葉を記録する書写符号(文字)も生まれ始めた.西安市半坡・臨潼県姜寨の仰韶文化,甘粛馬家窯文化,山東省莒陵陽河・諸城県前寨大汶口文化遺跡から出上した陶器の上には,刻みつけた符号と図形符号が数多く発見された。 治金術・文字・堡塁は初期人類社会が生み育てた文明の光である。それは黄河の大地を照らし,黄河流域の住民がいよいよ一つの新しい歴史時代に足を踏み入れることを予告していた。
文献記載によれば,大体紀元前21世紀ごろ,黄河中流一帯にいた夏族が中国歴史上最初の奴隷制国家――夏王朝を建てて,中国文明史でもある黄河文明史の第一ページを開いた.
夏および夏王朝の文物制度について,文献記載は非常に簡略ではあるが,比較的明確である。
夏はもともと部族連盟の名称であったが,後に王朝の称号となった.夏人は崇(今の河南省西部の嵩山)に興り,歴史に,夏の禹王は陽城に都を建て,その附近の伊水・洛水両岸は「有夏の居」とされた。また禹は安邑・平陽(現在の山西省南部)に都し, 西周前期には, 安邑・平陽を「夏墟」と呼び,そこの住民はなお夏人の風俗習慣を残していたともいう.夏王は帝丘(今の河南省濮陽市)に建都したこともあった。以上のことから, 今の山西省南部・河南省西部から東へ河北・河南・山東の省境あたりにかけてが夏人の活動した地域であったことが知られる.古籍記載の夏代に関する史料から次のことがわかる。
夏人は早くも大禹時代に「水土を平らぐ」ことに注意し,水路を整理し,原始的な灌漑技術を持っていた。そして黄河中流域は,主に黄河の沖積による黄土地帯であって,土壌が肥沃で植物栽培に適した自然条件を具えていたために,夏代の農業経済は相当の発展を遂げた。
さらに夏人は製銅で名高く,かつて九鼎を鋳造し,「銅を以って兵(兵器)を為った」。『墨子』耕柱篇に,「昔,夏王の開(夏王禹の子,啓のこと)は蛮廉に命じて山川から銅を採り,昆吾の地で鼎を鋳造させた.また伯益に命じて雉を殺しその血を白若という地に住む亀に塗り占いをさせた。亀がいうことに『三(四)足にして方形の鼎を作らん……』」とある。そのほかの手工業も細かく分業化され,任姓の奚仲という人が車の製造に巧みだったので,夏朝の車正(官名)になったと伝える.
また史籍には,夏朝の王都は城郭・溝池が整然と配置され,城内には官殿建築物がそびえ立っていたという。夏朝の統治者はおおまかな文物制度を打ち建て,国家に軍隊を設け,刑法を定め,王府(庫)には「石」「鈞」といった度量衡制があり, さらに「百官」を設けて社会を管理させ,被統治者は国家に対して貢ぎ物を納めるなどの義務を負わねばならなかった。
夏代の科学文化はすでにある程度の水準に達していた.夏人は絶えず農業生産の経験を積むとともに, しだいに天文暦法の知識を蓄えていった.『左伝』昭公十七年に引かれた『夏書』は, 当時,房宿(二十八宿の一)の位置に発生した日食を記録している.それによると, 日食が起った時「瞽(楽官)は鼓を奏し,嗇夫(貨幣を司る役人)は馳せ,庶人(下役)は走る」とあり,人々が太鼓を打ち鳴らして奔走するありさまが描写されている。これは世界最古の日食に関する記録である.暦法の方面では, 中国伝統の六十甲子(十干と十二支との組合せ)で日を記す方法は夏の時代にもう存在していたであろう.夏朝後期の二,三の王―胤甲・孔甲・履癸(桀)らが甲・癸などの十干を名としているからである.また春秋時代の孔子は「夏の四時の書」一『夏時』(夏の暦法の書)を見たことがある.後世に伝えられた暦法『夏小正』は夏代に蓄積した,天象及び生物と気候の関係などの科学的知識を含んでいたに相違ない。そればかりでなく,夏代には社会教育と学校の設置があり,文化的な典籍も存在したという。『孟子』滕文公に「(地方の学校を)夏代では校といい,殷代では序といい,周代では庠といい,都の大学は三代を通じて学と呼ばれた」という‘『漢書』芸文志(当時存在した書籍の目録)に「『夏亀』,二十六巻」とある。先秦の文献の中で,『夏書』(『書経』中の夏王朝に関する部分)の記事を引用して自己の立論の根拠とすることはよく見られるところである.夏の啓は『九辯』『九歌』という舞楽を創作した.
もちろん以上の全部を信ずるわけにはいかない。しかし考古学の発見にともなって,商(殷)代の歴史はすでに信頼できる歴史と確認されたし,先秦の典籍が早くから夏を商・周とともにに並べて「三代」と称してヽヽるので,『史記』夏本紀などの夏代に関する記事は信ずべき所がないとすることは断じてできない。
近年来,考古学者は夏代と夏文化の認識のために多くの貴重な資料を提供した。そのなかで最も重要なのは,50年代以来の,文献に書かれた夏人の活動の中心地一河南・山西などの数十力所の遺跡に対する考古学調査と大規模発掘である.
河南省偃師県二里頭・山西省夏県東下馮などの遺跡の考古学発掘は,非常に重要な成果を得た.二里頭遺跡では,龍山文化と商文化の間を橋渡しする文化いわゆる「二里頭文化」を発見した。考古学者によれば,それは独自の特徴を持ち,ほかの文化の陶器の組み合わせと違いがあり,初歩的な青銅治金鋳造技術を持っていた。このようなはっきりした特徴を具えた古代文化は,河南省西部と山西省南部で多く発見された。一部の学者は, この文化は長い間探索してきた夏文化であり,二里頭文化遺跡は夏代文化遺跡であろうと考えている.
二里頭遺跡は面積200余万平方メートル.遺跡中央部の上の文化層で,大規模な官殿基礎跡が数力所発見された。周囲には製銅・陶器焼成・骨器製造などの作業場跡,住民の集落,貴族の墓地が分布していた.1号宮殿基礎跡の一つは,すべて黄土を用いて版築をした大きな基壇で,東西108メートル,南北100メートルある。その中央部ゴ北よりの所が殿堂の基礎である。文献資料も参考にして,発掘状況から推測すると,殿堂は桁行8間,梁行3間,東西両面に回廊が設けられ,正南約70メートルの所が宮殿の正門である.これは堂・回廊・庭・門など各建造物によって構成された,主要な建物と副次的な建物がはっきり分かれ,配置が整い,混じり方が面白く,なかなか壮観な木造建築群であったと推定される.もしも二里頭遺跡が夏代文化の遺跡だとすれば, この宮殿基礎跡は夏王朝のある時期の都城建築遺跡であろう。
二里頭遺跡出上の文化遺物はたいへん豊富である。初期青銅器の発見は特に注目される。青銅器には祭器の爵,生産工具の手斧・刀・錐・釣針,武器の文・戚(まさかり)・鏃(矢じり), 楽器の鈴などがあった.銅爵はすでに作りが整っており,器壁の厚さもむらがなく,鋳型を組み合わせて作ったものである.別の銅器の残片上に緑松石(トルコ石)象嵌の図案も発見された。これは銅象嵌技術がすでに生まれていたことを説明している。そのほかの遺物には,陶質の鼎・罐・鉢・甕・豆・觚・爵・年などの生活用器と酒器, 石製と骨製の多種の生産工具と装飾品があり, さらに麻布などの繊物もあった。
夏代先人の観念形態に関するものも,二里頭遺跡では重要な発見があった.占卜に用いた卜骨は牛・羊・豚の肩胛骨で作られ,手入れされたものもあり,先に孔をあけてから火にあがる方法で占卜を行った。権威を象徴する玉製祭器には,琮・鉞(まさかり)・圭・璋・芸術品に,陶塑の亀・かえる・羊頭・彫刻した魚・兎・龍・獣面の図像があった。陶器の口縁附近に刻まれた符号は20種以上に及んだ.
文献では,夏朝は高から始まって桀で滅び,14世,17王,紀元前21世紀から前17世紀までの約400余年続いた。二里頭文化遺跡出土の標本の年代は,炭素年代測定で紀元前1900~前1600年であった。この炭素年代と文献記載の一致は, この時期の文化遺跡と遺物は夏王朝の文明を理解する上で重要な材料を提供できることを人々に信じさせる後押しとなる.
紀元前17世紀,黄河下流域に興った商部族は,湯の指揮のもと,ほかの多くの部族と連合して夏の支配者桀を打ち破り,商朝を建てた.湯が夏を滅ばしてから,紀元前11世紀に商朝が滅びるまで,17世,31王,約600年間続いた.
商は「邦畿千里」の王朝であり,活動の範囲とその影響下の地域は相当広い。考古学者は万里の長城内外, 五嶺(湖南,江西南部と広西,広東北部の境にある五つの山)以北,東は山東,西は黄河上流までの地域で,商文化遺跡や遺物を発見した。特に幾つかの商代の城址遺跡と安陽殷墟の大規模な発掘は,われわれに商代文明に対する全面的な認識を持たせたのである.
商代前期の城址については,近年河南省偃師県尸郷溝で重要な発見があった.考古学調査と発掘の結果,城址の平面はほぼ長方形を呈し,南壁はすでに洛河に押し流されてないが,ほかの三面の城壁はほぼ完全に残っていた.東西1,200メートル,南北1,700メートル.壁は全部版築で築かれ,基部の厚さは約18メートル,残部の高さ1×2メートル.城門七つと縦横に交差する数条の大道が見つかった。大型建築基礎跡が三カ所発見された。そのうち最大のものは縦横各200メートル,四月を厚さ3メートルの版築の塀に囲まれている。その塀内中央部に縦横数十メートルの宮殿の基壇跡がある。この商代前期の城址について,ある学者は商王湯が都した「西亳」ではないかと考えている.
早くも50年代に調査と発掘が何度もくり返された鄭州商代遺址は,面積25平方キロで,文化層の堆積が厚い.遺跡中央部で発見された商代城址の規模は大きく,城壁の長さは7キロに達し,平面はほぼ長方形で,城壁基底の幅は平均20メートル, 内側あるいは内外両側に護城坡」と呼ばれる版築の部分がつく(主体の壁をつき回めるための横板を外側から支える土盛りも版築で作られる。この外側の傾斜した壁を護城坡という).3千年余の風雨の侵蝕と世の治乱興亡を経てきたが,今なお鄭州市内で地表から8,9メートルもそびえ立った城壁の名残りを見ることができる。当時の版築による城壁の堅牢さがわかる.城壁内には大きな宮殿の基礎跡があり,城壁外にはいろいろな手工業の作業場の遺跡と住居跡がある.近年来,青銅器の出土が絶えず,刻辞の卜骨も発見されている.1974年と1982年にこの遺跡から発見された商代中期の窖蔵(穴倉)出土の青銅祭器のうち,獣面乳釘文銅方鼎と円鼎は形態が巨大で,造形が雄渾である。獣面文銅卣・銅尊・銅罍は作りが優美で,文様は華麗である。これらは商王室の宝器に違いない。この商代中期の重要な都邑は商王仲丁の建てた傲都であるかもしれない.
河南省安陽市西北の遠くない所,小屯を中心とし,洹河両岸地区を含めて,東西約6キロ,南北約4キロの地域に,広大な商代文化遺跡がある。ここが内外に名高い商代後期の都城遺跡--殷墟である.この一帯は商代晩期に「北蒙」とも,「殷」とも呼ばれた。紀元前14世紀, 商王盤庚がここに遷都して,殷紂王が滅ばされるまで, 273年続いた。周が殷を滅ばしてからは, ここはしだいに荒れ,一面の廃墟となった。そこで司馬遷(漢代『史記』の著者)はここを「殷墟」と呼んだのである.
殷墟では北宋以来絶えず重要な文物が出土してきた。半世紀以来, ここにおいて数十回の大規模な発掘が行われ,大型の宮殿と宗廟の遺跡・巨大な王陵と貴族の墓地が調査された.普遍的に存在した人を殺して殉葬する風習と人身供犠の現象が発見され, また大量の灰坑(窖穴)と多くの手工業作業場遺構も発見された。見事な青銅器・玉器・陶器・甲骨卜辞を含めて,出土した大量の遺物は当時の高度な文明を反映している.
農業は商代の主要な産業であり,農具にはすでに多くの青銅農具があった.当然大量の木器・石器・骨器・蚌(貝製の)器もあった.農業労働では大規模な単純協同作業が採られた。まさに甲骨文にいう「衆脅(協)田」のやり方で耕作したのである。栽培された穀物は禾(あわ)・黍・稷・麦・稲など多種あった。農作業のほか, 人々は馬・牛・羊・豚・犬・鶏などの家畜を飼った。中国の古代農業経済の「五穀」(稲黍稷麦豆)を植え「六畜」(牛馬羊豚鶏犬)を飼うという伝統は,商代にすでに定まっていたのである.
商代の手工業はたいへん発達していた。各種手工業,鋳銅・陶器製造・骨器製作などでは専門の作業場が設けられ,その内部でははっきりと分業が行われていた。青銅精錬鋳造業は商代手工業が達成した最高の成果である.河南の鄭州や安陽などで規模のかなり大きな鋳銅作業場遺跡が発見され,王畿から遠く離れた方国でも, 自国の鋳銅の場所を持っていた。
黄河流域で発見された商代青銅器は1万点を下らない。青銅器の種類は多いが,主には王室・貴族が使用するための祭器で,ついで戦争に使う武器,そして生産工具である。よく見られる青銅祭器には炊器,食器, 酒器があり, 鼎・鬲・甗・簋・彝・卣など20余種みられる.これらの青銅器は大きさ,様式はさまざまだが,造形は生き生きとし,製作は精緻である.銅器上の文様には,獣面文・鳥文・蝉文・蕉葉文・鹿頭文・牛頭文・雲雷文などがあり,文様は細密で繁褥,華麗で荘厳,独特の民族的風格をもち,世界の青銅器文化のなかの工芸技術から見ても,商代青銅器は最も精巧で,最も華麗な例である.
殷墟出土の青銅器は最も数が多く,水準も最高である.
「司母戊」方鼎は重さ875キロ,高さ1.33メートルで,豊富な精煉鋳造の経験と発達した工芸技術がなければ, これほど大きな器を鋳造することは考えられない.1976年小屯西北で商王武丁の配偶者婦好の墓が発掘されたが,副葬品の中には青銅器468点があり,形態を見分けることができる青銅祭器は21種217点あった。「司母辛」銅方鼎,「婦好」扁足銅方鼎・「司母辛」銅兕觥・「婦好」銅鴞尊・獣面文銅壷は,造形が雄大奇抜で,文様装飾は華麗で繁褥,商代青銅器中の精華である。婦好墓は保存状態も完全で,このほかの副葬品も非常に豊富であり,殷墟で発掘された王室の成員の陵墓のうち唯一完全無欠のものである。甲骨卜辞に記されたところによれば,墓の被葬者婦好は重要な祭祀行事を司り,またしばしば軍隊を率いて夷方・土方・羌方・吉方・巴方などの部族を征伐しており,武丁時期に権勢をふるった重要人物であった.ある1片の甲骨ト辞に「辛巳卜,貞,登婦好三千,登旅万,乎伐〔羌〕」と刻字があり,婦好が羌方征伐の1度の戦役で, 自ら13,000人の大部隊を率いたことを述べている。これは今のところ商代において1回の征戦のうち用兵の最も多い例である.この3千年前の王妃,婦好が戦争に強く,風雲を叱咤する統帥者であったとは,驚くべきことである.
絹織物・玉彫刻・象牙彫刻・漆工芸といった古代中国の多くの伝統手工業が商代すでにかなりの程度発展していたことは,殷墟での発見によってよくわかる.
製陶業においては,高嶺土(カオリン)を使って製作した白陶は白く艶があり,彫りが美しい.酸化ケイ素を釉薬とする灰釉の器は胎土が硬く,吸水性が弱く,表面にガラス質のような光沢のある灰釉がかかり,原始的な磁器の特徴を備えている.殷墟などで出土したこの種の灰釉の器は中国青磁の先駆である。
象牙,玉石などを彫刻した芸術品と装飾品は種類が多く,工芸水準も極めて高い.婦好墓出土の玉石器は700余点あり, 小さな鳥・獣・虫・魚から大きな大理石の丸彫り,及び緑松石象嵌の象牙杯に至るまで, どれもがすこぶる高い芸術的価値を有している.
養蚕・紡績・機繊は商代すでに盛んに行なわれた.甲骨文の中に桑・蚕・絲の象形文字があり,出土物の中に実物をよくまねた玉蚕があり,絹織物の痕跡や刺繍繊物も出土している。
このほか,たくさんの漆器の残片の発見は,商代の漆工芸技術が発達していたことを示す.
中国の文字は長い発展の過程を経て,商代に成熟の段階に至った。甲骨文字は一種の成熟した文字である.殷人は祖先を崇拝するとともに,「上帝」崇拝の強い原始的な宗教観念を持っていた.このことと相俟って, 占卜術がかなり流行したのである。商代の統治者は戦争・雨の有無・祭祀から商王個人の狩猟・疾病などに至るまで事々に卜い, 上帝に吉凶の伺いをたてた。長年にわたって殷墟から出土した刻字のある甲骨片は10万片以上に達する。ここは商代後期の王室卜辞文書庫といえる.甲骨文は約5,000字あり,すでに法則性を備えた文字体系を成している。その卜辞の内容はほとんど当時の社会生活の各方面にわたっている.ト辞中に日蝕・月蝕の記録があり,鳥星,商星,大星・火星についての記載もある。
現在まで遺されてきた商代文字は,ほかに青銅器に鋳出された金文と,陶器・玉器・石器に刻まれた陶文などがある.注目に値するのは,殷墟出土の一部の器物の上に当時の墨書や朱書の文字が筆画も明晰に,筆鋒もはっきりと遺されていたことである。これは商代にもう毛筆を使っていたことを証明する。これらの漢字は漢字の最初の形であり,貴重な初期の書の芸術作品でもある.
甲骨卜辞の内容は長いもので百字を超えるものがあるので,簡牘(竹簡と木簡)やほかの素材に書いたり刻んだりした文章はもっと長かったであろう。周人が「先の殷には冊と典とがあった」(冊も典も木簡竹簡の文書のこと)というのは当然根拠がある.
今は亡き著名な考古学者夏鼐先生は,中国文明の起源の問題に言及してこう述べた。「商文明の高い水準をもっともよく代表している特色は,発達した青銅鋳造の技術と銅器上の装飾文様,甲骨文字の構造と特色,陶器の形状と文様,玉器の製作と装飾文様などである.これらはみな個性と独特の風格と特徴を備えている。これによって中国文明は独自に発生し発展してきたのであり,外来のものでないことを証明することができる。」「商代殷墟文化はまことに光り輝く文明である」(『中国文明的起源』).
約紀元前11世紀末,周人は殷人の支配に取って代わった。周は商を滅ぼす前,商朝の西方にあった一つの強大な方国であった。近年,周の初期の政治経済の中心であった陝西省扶風県・岐山県一帯で, 重要な発見が多くあり, 西周時代の極めて重要な青銅器が出上し, 2基の大型建築基礎跡が発掘された。『詩経』緜は,周の文王の祖父古公亶父が豳(陝西省)から民を率いて漆水沮水(ともに豳の地にある川の名)を渡り,梁山を越えて岐山の下に止まり,そこに城郭を築いたという.周原(岐山の南の高原)の地下遺構には周の初期の都邑の遺跡が含まれているはずである.文王の末年に都を豊に遷し,武王は豊から鎬に遷した。紀元前1207年,武王は商を滅ばし,都を鎬京(今の陝西省長安附近)に定めた。歴史にいう西周である。
周朝は商朝より大きな勢力範囲を持ち,西周文化は自身の文化に加えて商文化を吸収した厚い基盤の上でなおいっそう栄え,中国奴隷制文明はこの段階で頂点に達した.
周人はもとから農業に努め,農業を国の基本とした。彼らは黄土が軟らかくて耕しやすい点を利用して,耕作は普通二人が組んで耒を押す方法を採って行った。これを偶耕という.実践の中で得た豊かな農業生産の経験から,輪番に土地を放置して地力を回復させる休耕制度を実行した.西用の手工業生産は,規模からいっても,技術からいっても商代の水準を超えていた。
王室は膨大な青銅器鋳造を掌握し,各諸侯国も自国の鋳造工場を持っており,各地で発見された西周青銅器の総数は商代よりもはるかに多い.
河南省洛陽出上の原始的な青磁器は,釉色がむらなく艶があり,高い工芸水準を備えている。陝西省出土の西周の瓦には板瓦と筒瓦があり,それには位置を固定するための環や釘がついている.瓦の出現と使用は,古代建築発展史上重要な意義がある.
紡織技術も明らかに進歩した。陝西省涇陽県西周墓出土の麻布残片は,糸の大さが均一で,経糸緯糸の目は緊密である.宝鶏市茄家荘西周墓出上の絹織物の圧痕は,当時辰砂などの顔料を使って着色していたことを物語る.
西周の遺された文字資料は豊富である.大量の青銅器銘文のほか,甲骨文も発見され,『尚書』『詩経』などの典籍に残っている長篇の文献と詩歌もみられる。青銅器上の銘文の内容は,当時の祭祀・征戦・賞賜・訴訟が主なものである。中には長篇の文章にまで発展したものもあり,例えば毛公鼎の銘文は497字の長きに達する。また貴重な文学作品といえるものもあり,西周の金文の書体は,丸みがあって優雄,力強く質朴で,多くは秀れた書の芸術作品である。
夏・商・西周と三代続いた1300年間,制度と伝統は踏襲されつつ,国家の規模は一代ごとに拡大し,経済文化は一代ごとに発達していった.文明時代に入った最初の段階で,黄河流域は独自の風格と創造精神を備え持ち,同時に世界文化の発展に対して創造的な貢献を果たしたのであった。
紀元前770年,周朝は都を洛邑(今の河南省洛陽)に遷した.これ以後を東周と呼ぶ.その前期を春秋(前770-前476年), 後期を戦国(前475-前221年)と呼が、この期間に中国の歴史には激烈な変革が起こり,奴隷制から封建制への転換を完成した。
春秋時代,中央王朝の統治は事実上瓦解し,強大になり始めた地方の諸侯勢力は互いに併呑しあい,大国の諸侯が覇を争うという局面が出現した。うち続く併合戦争の末,戦国時代に至って,文献に記載されたものは10余国,そのうちの大国は秦・斉・楚・燕・韓・趙・魏,即ち「戦国七雄」である。
春秋戦国時代,産業の一つの重要な特色は治鉄術の急速な発展である.考古学の発見は, 前8~7世紀即ち春秋初期,黄河流域にすでに鉄器が使用されていたこと,戦国時代に至って, 鉄器使用の範囲は拡がり, 生産工具・生活用品・武器装備に鉄製品が使用されたことを示している。鉄器が広く社会生産の領域に入り込んだことは,そこに革命的な意義が認められる。封建的生産関係の形成と生産技術の進歩は農業経済の迅速な発展をもたらし,手工業の発展及び商品と貨幣の関係の発達を促した.各諸侯国の都市が,雨後の筍の如く急に興り,商品経済は大変活発になり,科学と文化芸術は空前の繁栄を見せた。同時に社会経済の発展はまた黄河と長江流域の広大な地域の各諸侯国・各民族をいっそう結びつけ,政治・経済・文化の上で統一された多民族の封建国家はすでに胚胎していた。
鉄器時代の到来は青銅鋳造業を衰退させたわけではない。むしろ社会経済の高度成長に伴なって,春秋戦国時代の青銅鋳造業は未曽有の規模を現出した.各諸侯国に青銅精煉鋳造の大工場があり,精煉鋳造の技術は新しい進歩を見せた。黄河岸から数十キロしか離れていない山西省侯馬発見の晋国鋳銅作業場追跡は規模が大きく,陶範(陶製鋳型)3万余点,そのうち器形がわかるもの1,000点以上が出上した.このほか銅塊・鉛塊・鋳銅生産工具が少なからず発見された。この遺跡やほかの地方で出上した豊富な遺物から次のことがわかる.鋳銅の伝統的な鋳型技術は改良され,造型材料は面料と背料が広く使用されたこと.陶製鋳型鋳造は手順がさらに細かく,効率の高い型押し法による鋳型製作へと発展したこと.青銅器の各種の部分を分鋳して合体する方法は複雑な器形の鋳造工程を簡素化したこと.胎上の緻密な陶範の質の改良によって青銅器の鋳込みの技術を全般的に上質で精密なレベルに高めたこと。「王子午」銅鼎をはじめとして,河南省浙川県下寺発見の春秋後期の青銅器群は,春秋時代にすでに青銅器鋳造の「蠟型法」(蠟で作った原型から鋳型を作り,蠟をとかし流して後,溶解した金属を鋳込む方法)の新技術が発明されていたことを証明する.このほか,合金の新技術,銅器の本体と附属部分を分鋳したあと再び鋳て合体したり,鑞付け・錯留めする技術,青銅器の鎏金(金メッキ)・文様の彫刻・錯金銀(金銀の象嵌)・緑松石象嵌などの技法も発達してきた。この時代,手工業製品としての青銅芸術は商周時代と比べて新たな盛況を呈した。
青銅器物の性格が祭器から実用器に転化したことは,春秋戦国時代,青銅工芸の用途の重大変化である.文明時代初期の段階で形成された商代青銅芸術は,その文様と一部の器形が空想的で風格のある恐ろしい怪物を表わしており,一種の神秘的な力と美を感じさせる。文様に表わされた怪物の雄健な線は,概念的な言葉ではとても表わし得ない原始宗教の観念をそのものずばりに体現しており,その堅実な器形と相まって,『詩経』長発に「(商の湯王は)有虔く鉞を乗る,火の烈烈たるが如く」とある血と火の時代を極めて巧みに表現しているのである.春秋,特に戦国時代になると様相はがらりと変わる.奴隷制の瓦解につれて,伝統的な礼俗はしだいに変化をきたし,祭器は名目だけのものに変わり始め,実際には以前のような社会的機能を果たせなくなってきた。これに伴ない青銅芸術も古い形から脱し,新しい姿を現出することになったのである.黄河流域・長江流域の各諸侯国, 各地方いずれの青銅芸術にもそれぞれ独特の風格があったが, この総体的な変化は共通していた。その主要なものは次の二つである。
一つは器型が軽便となり,使用に応じ,多様化したことである.新しい器種が続々と現われ,多くの新出の器型の中には命名し難いものもある。以前と同じ器型のものも,しばしば素材は軽くなり,型は気が利いている.これらの銅器のほとんどはもはや廟堂中に陳列する祭器ではなく,多くは生活の実用器具である。各種の容器以外に,武器の鋳造も大変な数にのばり,銅鏡・銅帯釣(バックル)など一般的な服飾品や生活用品もかなりの比率を占めた。
二つめは装飾が華麗精細を競い,文様の題材と風格に顕著な変化が起ったことである.多くの青銅器上の文様は金襴緞子のように細かく華やかだが,特にめだつ主題がない.夔龍文,鳳鳥文や各種の神話上の題材のような伝統的文様がな活用いられていたとしても,あの厳粛な雰囲気はもはや消失していた.伝統的な文様が新時代の要求を満たすことができなくなったために,職人たちは社会生活中の狩猟・桑摘み・酒宴・水陸攻戦といった題材を取り入れて文様とした。これらの変革は,原始宗教的な禁忌が打ち破られ,芸術が幻想の中から覚醒して神秘の天地を抜け出し,世俗の生活を注祝し表現し始めたことをはっきりと示している。芸術は既に神の芸術から人の芸術に変ったのである.
春秋戦国時代の青銅工芸は,当時の社会変革に呼応して新しいものを創造したので,中国古代芸術史上重要な輝かしい一章となった.
春秋戦国時代は科学・技術・医学・史学・文学・彫刻・絵画・音楽などの方面でかなり高い成果があった。しかし,精神文明の幾多の成果のうち, しだいに成熟し且つ体系化・理論化された学術思想こそは春秋戦国時代の最も偉大な成果であった。各諸侯国の急激な社会変革がイデオロギーの領域での新しい開拓と創造に条件を与えた.当時,百家が蜂起し,諸子が争鳴したが, 全体を貫く一つの思潮は「理性主義」である。それは先人の後を受けて発展させたもので,原始的巫術宗教の伝統観念から脱して,人間世界の社会思想学説を採用すると共に,他面では初めて中華民族の文化―心理構造を定めたのである。これは孔子を代表とする儒家思想であり,老子,荘子を代表とする道家思想はその対立物と補完物となった。「儒道互いに補う」という思想は,以後2千年間中国古代社会のイデオロギーの領域において支配的な地位を占めた思想であり, また他の民族文化と異なる漢文化の思想的基盤となったのである。
孔子は偉大な思想家,教育家であり,世界文化史上の巨人である。彼の代表する思想理論は古代中華民族の性格と文化―心理構造を形作るうえで重要な影響を与えた.
儒家と道家の学派以外に, 当時墨家・法家・陰陽家・名辯家・農家等々が生まれた。この諸学派にはそれぞれその代表人物と著作がある.伝えられてきた諸子の作品は,『論語』『孟子』『老子』『荘子』『墨子』『荀子』『韓非子』『商子』『公孫龍子』などが主なものぅほかに春秋戦国時代に成った古典名著に,『尚書』『周礼』『儀礼』『詩経』『易経』『春秋左伝』『国語』『孫子兵法』『戦国策』などがある。
これら黄河の大地の上に誕生し育まれてきた傑出した人物と偉大な著作は,散りばめられた星の如く,中国先秦の歴史という銀河の中でまばゆく光り輝いているのである。
前221年,渭河から黄河中流域を版図とする秦国は相前後して韓・趙・魏・楚・燕・斉の6諸侯国を攻め滅ぼした,「六王畢わり, 四海一となる」(杜牧「阿房宮賦」)。諸侯が割拠する分裂状態は終焉を告げ,統一された封建国家が成立した。咸陽を首都とし,その境域は東は大海に臨み,西は甘青高原に達し,南は嶺南に至り,北は河套・陰山・遼東に及んだ。
秦の始皇帝の中国統一は,中華民族発展史上の重大事件であった。始皇帝は統一後,権力集中と統一強化のための一連の重要な政策をとった。長期にわたる分裂割拠がもたらした文字の形,貨幣制度,度量衡の不統一を解消するために,秦の丞相李斯が定めた小篆を標準文字とし,方形の孔のあいた円形の半両銅銭を通貨とし,商鞅が制定した度量衡を標準度量衡にすることを決定し, 詔して全国に推進させた.さらに分封制(天子が貴族・臣下に土地を分かち与えて諸侯にする制度.封地内の政治・経済・軍事などは独立し, 支配権は世襲.封建制ともいう)を廃止して郡県制(全国を若干の郡に分け,郡の下に県を設け,郡と県の長官は皇帝が直接任免し, 世襲できない)を敷き, 最高統治者の称号を「皇帝」と定め,法律を統一し,行幸のための道を作り,霊渠(広西興安県内にある運河)を開鑿し,北に匈奴を撃ち,長城を修築した。これらの施策は統一国家の発展を促進する上に極めて大きな影響を及ばした。
秦王朝はわずか十数年しか存続しなかったが(前221-前207年),後世に豊かな歴史的文化遺産を残した.
秦都咸陽遺跡において,考古学者は横約6キロ,縦4キ口の範囲内で,基壇を版築で築いた大型建築物を数多く発見した。ある官殿遺跡の発掘から,主体の建造物は版築で築いた高く大きな基壇の上に立ち,柱の並び・通路・石段・門の通路は対称的に配置され,四月に回廊があったことが判明した.殿内は床を朱漆で塗り,壁面に彩色した壁画があり,石段は龍鳳文・菱形文・回文のある空心導で築かれ,瓦当の装飾文様は秦国伝統の鹿・馬・虫・鳥などの動物文のほかに,東方の周王朝支配地域の巻雲文を取り入れている.これらは秦代宮殿建築芸術の理解に非常に価値のある資料である.
長城と兵馬俑は秦代が後世に残した至宝であり,世界の奇観と称えられている。
長城は前7世紀に初めて建てられた。もともと各諸侯国が隣国の攻撃と北方遊牧民族の侵入を防ぐために築いたものである.秦の始皇帝は全国統一後,大将蒙恬を遣わし秦軍30万を率いて匈奴を迎え撃たせ,ついで50万の軍民を派遣して大規模な長城修築工事をさせた。燕,趙,秦3国の長城をもとにして,連結,補修を加え,西は甘粛省臨洮から東は遼東まで,高くそびえる嶺々や谷川峡谷を縫って連綿と続く, 1万華里(約5,000km)に及が「万里の長城」を築きあげた。長城には百もの関所と要害,万にものばる城塞とのろし台がある。長城は戦略防御の産物である.歴史の上で,それは確かに敵を防ぎ平和を守る役割を果たした。2千年来, この延々と続く巨龍は永遠に飛び舞っているかのようであり,中華民族の偉大な活力のシンボルとなった。ある人の計算によれば,万里の長城を築くには, 1億8千万立方メートルの突き回めた上と6千万立方メートルの石材が必要だという.もしこれらの上石を地球の赤道に沿って,幅1メートル,高さ1メートルの台にして敷くとすれば, 5周するという.古今を通じて,何と偉大なエ事であろうか!
秦の始皇帝の陵墓は陝西省臨潼県にある.2千年の風雨にさらされて剥落し,人為的破壊に遭ってきたが,表面の封土はもとのまま巍然と関中平原にそびえ立ち,雄大な姿を見せている.陵墓内の地下宮殿の宝物はどうなっているのか,今だに謎である。1974年以来,考古学者は秦始皇陵の東域で,幾つかの兵馬俑坑を発見した。坑内には6千点以上の兵馬俑が埋められ,ほかに木製の戦車,各種の青銅武器があった。陵墓の西側で青鋼製車馬を埋葬した坑が一基発見され,青銅車馬2組が出上した。秦俑坑の重大発見は内外の注目するところとなった。一つには,灰陶彩絵の完全武装の兵士と軍馬は実物大に近く,馬に鞭打ち戦車を御する者あり,弓を引き弩を持ち上げる者ありで,一定の隊列に従い主体は東に向き,勇ましく壮観な戦陣を構えている.この兵馬俑群を見ると,当時始皇帝の六国統一の戦争において,「帯甲(よろいを着けた歩兵)は百余万, 車は千乗,騎は万匹」(『戦国策』韓策一)という,戦場を疾駆し,連戦連勝のみなぎる気概をしのび,始皇帝時代の武功を理解することができる.もう一つには,兵馬桶は精級で膨大な彫塑群であり,工匠たちが用いた彫塑の技法,模・塑・捏・堆・貼・刻・画(つまり型取り・こね上げ・つまみ上げ・積み上げ・貼りつけ・ヘラ彫り・絵つけ)などを一身に集め,中国伝統の泥塑「七技」の技法を創造し, これによって秦軍の将士と軍馬の気質,精神,態度を浮き彫りにし,驚くべき芸術効果を生んでいる。それらは写実的でありながら,簡潔で洗練された芸術の花である。近年,一部の秦兵馬俑が日本やその他の国で陳列されたが,観衆に珍重されない所はなかった。1号兵馬俑坑の上には既に巨大な兵馬桶博物館が建てられ,一般の参観に供されている。これは独特の陶塑芸術品である。このように広大な地下彫塑芸術館がほかに世界のどこにあろうか。これこそ2,200年前の黄河河畔の偉大な歴史の結晶である!
秦が滅びてから,「楚漢相争う」の5年を経て,漢王劉邦は楚の覇王項羽に勝ち,前220年,帝を称えて漢朝を建て,都を長安(今の陝西省西安)に定めた.歴史にいう西漢(前漢)である.前漢末,深刻な社会危機が王莽の改制と農民の大蜂起を招いた.その後,劉秀が漢朝の支配を改めて建て直し,紀元25年に皇帝(光武帝)を称えて,洛陽に都を建てた.歴史にいう東漢(後漢)である。前後漢は合わせて400余年.政治的に統一され,経済文化が発達し,武力の強大な,5,6千万の人口を擁した偉大な国家であった。
前漢前期は「無為」の政治を行ない, 人民は6,70年間休養して鋭気を養うことができた。そして半割拠状態の諸侯国を最終的に除去し,中央集権の力を強めた。前140年,武帝劉徹が位を継いだ。彼は卓越した才能と遠大な策略を持った政治家であり,政を行なった半世紀の間に,前漢王朝は最盛に達した。政治面では,統一された中国が一層強国なものとなり,高度の中央集権制を実現した.経済面では,水害を治め,水利事業を興し,進んだ耕作技術を普及させ,豪族の手中から製塩・冶鉄・鋳銭の権益を取り戻した。軍事面では,北辺の強敵匈奴を敗り,西域に通じる路を開拓し,版図を拡張した。文化面では,儒家思想が正統思想となり,共通の文化を基礎とする共通の心理状態の安定化に役立った。前漢の様々な方面における代表的人物は,大経学家・政論家の董仲舒,大将軍の衛青・霍去病,大農学者の趙過, 大歴史家の司馬遷, 大天文学者の唐都・落下閎,大探検家の張騫,大音楽家の李延年など,いずれも集中的に武帝時代に現われた.この非常に重要な一時期は黄河文明史上の輝かしい一章である。
考古学の成果は,前漢の社会と文化の発展を理解するうえに大変貴重な資料を提供した。元来地方ごとに特色のあった文化が前漢中期以後さらに接近し, しかも新たに設けられた郡県による新たな漢文化の地方性が出現し始めたことを, 大量の考古学遺跡・遺物は証明している。当時,都城長安周辺の関中地方は経済文化の最も発達した地方であった。関東地方(函谷関以東の地)即ち黄河中・下流域も経済文化が非常に発達しており,文化は関中地方とよく似ていた.黄河上流はなお人煙稀な,経済文化の比較的遅れた地域であったが, 河西の4郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)の設置に加えて,軍事・屯田などの行動にともない,多くの新しい地域が開墾され始めた.甘粛省,青海省で軍事と屯田の遺跡が幾つか発見されている。
都城長安の壮大な規模は前漢の政治・経済・文化発展の集中的な現われである.考古学一般調査と発掘の結果,次のことがわかった。長安は平面がほぼ方形をなし,各辺に城門が3つあり, 四方の城壁の全長は25,700メートルになる.城壁の断面は台形をし,底部の幅は12~16メートル,外側に幅約8メートル, 深さ約3メートルの濠がめぐる.城内に街路・宮殿・武器庫の遺跡, 城外南郊と東郊に辟雍(天子の建てた大学)など礼典にかかわる建物の遺跡がそれぞれ発見された.これらの発見は,長安城についての記載,つまり周囲63里(漢代の里は約400メートル),12の城門,城内に8街9陌(陌も街路), 東西9寺(寺は役所の意),160閭里(道に囲まれた庶民の居住単位)というのと一致する.長安城発掘の作業はなおも末永く続けられるであろう。そこから次々に明らかになることは前漢の社会に対する認識を深めるであろう。
黄河流域で発見された前漢時代の農業と手工業に関する遺物は,前漢時代黄河流域の経済が大きく発展したことを反映している.
前漢時代の農業に関する考古資料は極めて豊富である.河南省洛陽焼溝前漢墓の陶倉と陶壷の中に,栗・黍・稲・大豆・麻・ハトムギ・高梁の残滓が発見された.これらが黄河流域及びその北方一帯の主要農作物であることを示している。陝西・河南などの多くの場所で発見された鉄の犂先は大変多い.山西省平陸県棗園村壁画墓では, 2頭による牛耕図と播種図の壁画が発見された。甘粛省武威磨咀子出土の牛と型の木製明器は牛1頭が一つの犁を引く。これらは前漢時代,黄河流域・長城地帯において,牛耕が広まり,楼(牛などに引かせる種播き器)による播種が普及していたことを示しており, これは当然農業労働の効率を大幅に高めることができた。
前漢時代の製鉄・青銅器製造・漆器製作・製陶・紡績などの手工業生産はどれも大きな規模を持っていた.とりわけ国家が統制する製鉄・製塩・醸造・贅沢品製造といった官営手工業は大いに発展し,技術水準は高かった.帝王や貴族の使用する青銅器はつくりが非常に凝っているばかりでなく,鎏金銀・金銀などの象嵌細工を施すのが常であった。例えば,陝西省省興平県漢武帝茂陵の陵域内出上の鎏金青銅馬,鎏金銀青銅竹節熏炉,山東省淄博市大武漢墓出上の鎏金青銅薫炉は全体がきらきらと輝き,すこぶる価値の高い工芸作品といえる.ほかの青銅鏡のような服飾用具・生活器具は一層実用化し,品質が向上した.
武帝以後,大土地所有制の基盤の上に建った荘園経済は急速に発展し,多くの荘園主は手工業も兼営した.豪族地主勢力の伸張は封建割拠の要素を孕んでいた.
全国の多くの遺跡, とりわけ黄河流域の河南,陝西,山東などの前漢晩期から後漢までの墓葬中に,地主荘園経済とその支配下の農民や奴婢たちを誇示するような陶製明器のセットが相当広く発見されている。邸宅・楼閣・倉・井戸・竃・一組になった陶俑などである。主人の居室にならって配置設計されている墳墓もある。例えば洛陽などでは,普通,耳室・甬道。前堂・後室の部分を設け,各部分の副葬品は配置が定まっている.左の耳室に篭・釜など炊事道具や料理人俑,右の耳室に車馬装飾品と陶倉を置き,前堂は鼎・盒・杯・案(小机)など食事用具,後室には鏡・鋏・剣など身の回りの道具がある.門を入って左側は台所,右側は車馬房と穀物倉,前堂は酒宴の場所,後室は起居する所であることがわかる.注意に値することは,建物模型の或るものには四隅に角楼があり,その楼上や楼下に武器を手にする護衛兵がいることである。これは一部の邸宅建築がますます砦の性格を持つようになったことを表わしている。これと関連したものに,河南・陝西・山東などの墓葬出土の画像石・画像塼がある。それには楼閣人物・車馬行列・楽舞百戯・門吏及び東王公・西王母・四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)・瑞鳥瑞獣といった題材の図が多く,牛耕・稲穂・狩猟・放牧の図もある。これらの明器と画像は,墓室構造自体をも含めて,漢代の社会状況の一面をある程度示しており,また趣のある漢代芸術品を我々に提供している。
前漢・後漢の文化は格別に豊富である.孔子の創始した儒学はこの時期の加工・改造・論争を経て,封建統治階級の要求により適った指導思想――経学と成った.董仲舒,王充などの経学家の多くは著名な思想家であった.
太史公司馬遷の著した『史記』は,黄帝から始めて漢の武帝にまで及が,中国古代最初のスケールの大きく,編成の整った紀伝体(天子の伝記の本紀と,臣下の伝記の列伝とを主体とした歴史記述の一体)の通史となった.
後漢の歴史家班固は群書を広く採り,『漢書』を完成して,断代史の新体を創った.『史記』と『漢書』は封建主義正史体の歴史書のうち最も完成度の高い巨著であり,『春秋』・『左伝』を代表とする周秦史書の基礎の上に,歴史学を大幅に前進させたのである。
漢代科学の卓越した成果の中には,天文・暦法・数学・地震学・製紙・医学がある。漢武帝時に作られた新しい暦―一「太初暦」は, 1年を365.2502日とした当時最も進歩した暦法であり, また135カ月の日食周期を算出し, 日食現象を予測可能の科学知識に変えた.『漢書』の中に新星と太陽の黒点についての正確な記録があるが, これはそれらについての世界公認の最も古い記録である.天体観測の記録としての天象図・星図が多くの地で見つかっている.前漢初に成った書『周髀算経』は最も古くピタゴラスの定理を使って天文計算と比較的複雑な分数計算をしたものであり,後漢中期に成った『九章算術』は内容が算数,代数,幾何など多方面の計算問題にわたり,そのうち平方根・立方根・一元二次方程式・連立一次方程式の解き方などは当時の世界の数学の分野でまれに見る成果である。後漢の張衡は偉大な天文学者であり地震学者であった。彼の論証によると,天と地は丸く,天は外にあって鶏卵の殻の如く,地は内にあって黄身の如く, 日月星辰は殻の上を休みなく運行するという。これは最も進んだ天動説であった.さらに彼は世界初の地動儀を造った.即ち地震波を利用して地震の方向を測定する計器である.感度がよかったため,138年のある日,洛陽から千華里(約500km)も離れた隴西(甘粛省臨洮県南)に発生した地震の消息を正確に報告したことがあった。漢代, また多くの著名な医学者と医薬学名著が現われた。中国古代の医学はもともと方士(道士)の巫術の中に付属していたものであるが,前漢と後漢の境に至ると徐々に独立してきた。前漢末に成った『神農本草経』は365種の薬物の品種と性能をこと細かに記述している。後漢の著名な医学者張仲景には専門の内科医学の著作『傷寒雑病論』16巻がある.また著名な民間医,華陀は極めて巧みな外科と麻酔の医術を持っていたという.理論と方法を持つ独自の中国医学の体系は漢代すでに打ち建てられたのである。
漢代に発明された製紙法は中国古代4大発明の一つである。1957年,陳西省西安市灞橋の前漢前期墓葬中から発見された,麻類の繊維で作った紙の残片は,今のところ世界で一番古い人造紙片である。その後,黄河流域の扶風,及び甘粛から新疆に至る地方の居延・敦煌・武威・民豊などの地で陸続と漢代の麻紙が発見された。植物繊維製紙法の大規模な普及はおよそ後漢の和帝時に始まった.当時の宦官,蔡倫が先人の経験を集約して,樹皮・麻くず・ぼろ・破れた魚網で紙を造ったが,価格が低廉だったので以後全国で広く造られ,人々はこの紙を「蔡侯紙」と呼んだという。その後,中国の製紙法はしだいに朝鮮・日本・中央アジア各国に伝わり, またアラビアを経由してヨーロッパに入り,周知のように世界文化の発展に重大な役割を果たしたのである.
民歌や五言詩などの文学,絵画・彫塑・楽舞などの芸術は,漢代は以前と比べてはるかに豊かな内容と高い芸術水準を持っていた。当時の絵画は,壁画・鳥画・漆画をはじめ陶器につけられた絵など,いずれもその線は流暢で,色彩は調和がとれ,熟達した絵画技法を示している。石彫・画像石・画像塼・陶塑・青銅彫像品など各種の彫塑は,それぞれ異なる素材に,線彫り・浮彫り・丸彫り・塑造などいろいろな技法を用いて豊かな内容を表現している.陳西省興平県霍去病墓の大型の人物石像と動物石像,河南省洛陽洛河岸発見の後漢時代の石造の天禄と辟邪(ともに霊獣),甘粛省武威県雷台出上の後漢時代青銅奔馬,武威県磨岨子出上の木彫の馬など, どれもが漢代工匠たちの豊かな想像力と秀れた創造的才能をはっきりと示している.
政治上の統一,経済文化の発達及び強大な国力などの基礎の上に,漢はまた周囲の幾多の国や民族と密接な政治・通商関係を結んだ.漢代数世紀間のほとんどの歳月,漢族と多くの少数民族は経済文化の平和的な交流のうちに過ごしてきた。長安と洛陽は対外交流の中心であった。西方に対しては,漢武帝時代に張鶱が前後2回10余年間にわたり西域に使いして,中国内地と辺彊地区とのつながりを強めたばかりでなく,葱嶺(パミール高原一帯)を越えてパミール高原以西の国家や地域と関係を結び, アジアからヨーロッパ・アフリカ大陸へ通じる大きな道を拓いた。中国の絹・鉄器・鋳鉄技術などが西方に伝わる一方,西方の産物(優良種の馬・葡萄・石溜・人参など)及び音楽,舞踊なども中国に入ってきた。この中国と西方の交通の要路が, 後代の人の言う「シルク・ロード」である。これは文明と友誼の道であり,前漢から唐代までの1千年の間,中国と西方の文化を結が重要な役割を終始果たしてきたのである.この「シルク・ロード」沿いに保存されている極めて豊富な古代文化の遺跡と遺物が,今日考古学者と旅行者のめざすところとなっている.
東方に対しても,文明と友誼の道があった。それは朝鮮と日本へ通じる道である.秦始皇帝時代に徐福が不老不死の薬を求めて東へ海を渡り日本に着いたという話はなお幾らか伝説的だとしても,漢代に既に中国と日本の間に正式の往来があったことは,間違いなく文献で考証することができる.『漢書』中に既に「倭人」の記載がある.『後漢書』の記載になると幾らか詳しくなり,恐らく倭人は後漢以降常に中国に来るようになったためであろう,紀元57年,光武帝は倭国王に印綬を授けた。『三国志』魏志の記事はさらに詳しく,漢と倭の往き来は増え続けていたことを明らかにしている。のみならず,近年来一部の学者は,古生物,古地質学,考古学の発見と研究から見て,中国の華北地方と日本は旧石器時代には密接な文化的つながりがあったとさえ考えている。
漢代400余年の長期にわたる統一を経て,後漢王朝が瓦解したあと, 中国の歴史は「三国」「両晋」「南北朝」の動乱の時代に入った。その殆どの期間は幾つかの政権が割拠するという状態の下にあった.長い間互いに往来し命運を共にしたことにより,各族人民は漢族を主体として大融合を遂げ南方北方の経済と文化には一定の発展があった。従来経済文化の中心であった黄河流域は, この時代の初め, しばしば戦争による破壊に遭ったものの,北魏中期(5世紀後半)以後,回復と発展を見せ,引き続き優位にあった。中原を中心として,各地方は終始密接な関係を保っていた.このことが来るべき隋唐の大統一と封建経済文化の大繁栄のために条件を整えたのである.
魏晋南北朝時代は科学文化などの面で, まさに過去を継承し未来を切り拓いたと呼ぶにふさわしい重要な発展が多く見られ,内容も相当豊富である.哲学思想の面では,唯心論の玄学の興起・仏教の盛行として現われ,また同時に唯心論玄学と宗教迷信に反対する闘争も存在した。科学技術の面では,「灌鋼法」(鋳鉄に錬鉄を灌ぎ入れて炭素含有率を平均化して鋼を造る方法)と「焼き入れ」処理などの精煉技術が出現し,祖沖之(429-500年)のような大科学者が現われた.彼は数学・天文暦法・機械製造の分野で卓絶した貢献をし,世界で初めて円周率の値を3.1415926と31415927の間にまで算出し, 精確に小数点第7位まで計算した.また煉丹家(煉丹とは鉱物を熱して不老長寿の仙薬をつくる道家の術)葛洪(約284-364年)著の『抱朴子』は,数多くの重要な化学現象を記述している.農学者買思勰著の『斉民要術』10巻は各方面の農業生産の知識を含んでおり,秀れた農業科学の著作である。皇甫謐(215-282年)著の『針灸甲乙経』12巻は広く伝わっている中国伝統針灸学の重要文献である。このほか,三国の魏の時,馬鈞が試作に成功した「指南車」(絶えず南を指す仕掛けのある車),晋代杜預の造った「水磨」(水力で回す挽き臼),劉宣景の造った「牛転連磨」(牛の力で同時に幾つかの挽き臼を回す),北魏の時崔亮の造った「水碾」(水力で回すローラー式挽き臼),文献に見える「記里鼓車」(車輪の回転数によって距離を自動的に測る草.車の上の人形が1里ごとに太鼓を打つ)などは,何れもその時代の機械製造の高い水準を具現している。
文化芸術の面では,魏晋南北朝時代は漢族と各少数民族が文化上溶け合い,南北の交流があったために,外来文化の吸収に一層関心が向けられ,黄河流域の文化に豊富多彩な新しい内容が現出した。三国時代魏の「建安文学」(曹操父子をはじめ, そのもとに集まった詩人たちの文学),東晋の有名な詩人, 陶淵明(365-427年)の詩, 及び多くの楽府民歌は,漢代の楽府民歌のリアリズムの伝統を継承し,新しい時代精神と新しい文学風潮を具体的に表わしている。「天は蒼蒼,野は茫茫,風吹き草低れて牛羊見る」(斛律金「勅勤歌」)このような豪放明朗な民歌は, 広々とした北方草原の景色を見事に写し出しているとすれば,曹操の「亀は寿しと雖」詩の中の「老いたる驥は櫪に伏すも,志は千里に在り,烈き士は暮年ぬれど,壮んなる心は己まず」という名句は,作者個人の非凡な政治的抱負を表現しているばかりでなく,黄河子弟の粘り強い進取の精神をも表わしているといえる.有名な大画家顧愷之・王義之・王献之父子は書家の代表であるが,惜しむらくは彼らの今に残された作品はもはや非常に少ない.近年来,黄河流域で発見されたその時代の大量の民間絵画と書道芸術品は,画像塼・墓室壁画・漆画・墓誌銘などを含み,まさに当時の書画の作風を表現しており, 高い価値を有している.北魏・北斉・東魏墓出上の北朝時期の陶俑は芸術上の特徴と時代の風格を鮮明に持っている。
漢代にまだ道術の従属物に過ぎなかった仏教は,魏晋南北朝時代に至って大いに伸張した.仏教の盛行は一面で一つの新しい精神上の枷を人民にもたらしたが,他面,インド・ネパール・パキスタンや中央アジアの絵画・彫塑・音楽・無踊及び医学・音韻学・論理学に関する新知識をもたらし,残された多量の哲学論著・仏典・芸術遺産は当時の中国民族文化が大変豊富になったことを表わしている.仏教は功徳を修めることを頼みとする。現在中国に仏教石窟寺が120カ所以上あるが,その多くは南北朝時代から建てられたものである。うち黄河流域の著名な石窟は,甘粛の敦煌莫高窟・天水麦積山石窟・永靖炳霊寺石窟,寧夏の固原須弥山石窟, 山西の大同石窟。大原天龍山石窟, 河南の洛陽龍門石窟・鞏県石窟, 河北の南北響堂山石窟など.これらの石窟寺院を建造するために,人民は驚くべき代価を支払った。今日入々はこの独特の芸術の精華を大変大切にしており,それは中国と世界の仏教文化の貴重な遺産である.
581年, 隋の文帝楊堅が北周政権を奪取し,隋朝を建てた.589年に陳を滅ぼして,中国を再統一した。隋朝は37年間しか存続しなかったが,創造されたものが多く,政治・経済・文化のどの面でも橋渡し的な重要な時期であった. 隋代に開鑿された大運河は,南は余杭(浙江省)から,江都(江蘇省)・板渚(河南省)を経由し, 北は涿郡に至り, 全長2千キロ以上,銭塘江・長江・淮河・黄河・海河の5大水系につながり,南北交通運輸の大動脈となった。これは世界的な大工事の一つである。河北省趙県の汶水上にかかる趙州大石橋(安済橋ともいう)は,スパソ(大アーチの両支点間の距離)が37.37メートル,大アーチの両端の肩の部分に各2個ずつ小アーチがあいている。これは隋代民間の工匠,李春の設計したものである.1300年もの間,車輛の重圧・風雨の浸蝕・洪水・地震に耐えて今なお姿は変わっていない.それは世界で現存する最古の,オープン・スパソドレル・ア―チ型石橋であり,中国橋梁建築史上の誇りである。
陝西省西安の李静訓墓・河南省安陽の張盛墓から出上した豊富かつ豪華な副葬品,極めて高い工芸水準の金銀装身具,そろいの白磁黒彩文吏武官俑・紅陶彩絵侍婢俑・楽舞俑などは,見る人に経済文化が高度に繁栄した次の時代の到来を予感させるかのようである.
618年に唐朝が興り,907年に滅がまで290年を経た。
唐朝は長期間にわたる統一と安定を保った.唐の大宗李世民の治政の期間(626-649年),国の政治は公明正大で,経済は急成長し, 社会秩序は安定し, 民族関係は睦まじく,「貞観の治」の太平の世が現われた。最盛期の唐王朝は,東は大海に臨み,西はアラル海に達し,北はバイカル湖を越え,南は南海に及が空前の大版図を擁した.政府の押さえた戸口数は一番多い時で900余万戸,約5,200余万人に達した.当時唐朝は領域は広大,物資は豊富,人口が多く,盛んな文明を持った,世界の大帝国であった。
唐の首都長安は帝国の政治・経済・文化の中心であった。規模壮大な長安城は隋都大興城の基礎の上に拡張して成ったものである.文献記載と考古学実地調査発掘によると,城壁の全長35キロ,面積は83平方キロ.全城は宮城(皇居)・皇城(官庁区)・外郭城(住民,商工業区)の3大部分に分かれる。城東北にあったのは華麗な大明官宮で,宮内主殿の含元殿は見晴らしのよい高みにあって,対称的に高閣と回廊があった。ここは盛大な朝廷の会合が行われる場所である。外郭城内は南北に11条,東西に14条の,幅が広く真直ぐの大路によって,整然とした108坊(居住区)と東西両市(商業区力こ区切られていた。そびえ立つ建築群,碁盤割のような区画は封建身分制の厳しさと唐朝の富強がりをよく表わしている.長安城内では,高度に発達した手工業があり,繁昌する商取引が行われ,四通八達の交通網が敷かれ,百花繚乱の科学技術文化があった。四方八方から集まって来た少数民族もおり,遠くはるばる苦難の長旅をしてやって来た各国の使者・商人・留学生・宗教徒・芸人たちもおり,人口は100万を越えていた。当時世界最大の国際都市と呼がことができる。
中国の封建文化は唐代に成熟段階に至った。強大な政治状況と繁栄する経済という条件下で生まれた唐代文化は,伝統文化の継承発展と外来文化の幅広い吸収という点で,多くの領域で完成の域に到達していた。広く大きく,清新で,燦爛と輝く,民族色豊かな唐文化は,中国古代文化の頂点であり,世界文化史の上でも特別な地位を占めているのである。
手工業の発展につれて,唐代の手工芸技術は長足の進歩を遂げ,時代色鮮やかな多くの製品を造り出した。河南省陝県・陝西省西安などで出上した白磁は生地が硬く,釉色は清んで白く, 玉のように温かく艶がある.西安・洛陽など出上の大量の彩色陶器―一唐三彩は,造形が精美で,釉色はいろいろな色が入り交じり,技術がすこがる精巧である.西安何家村窖蔵の金銀器を代表とする唐代金属器物は,切削・研磨・象嵌・彫刻などの技術の面で極めて高い水準を見せている。あちこちから出上した唐代銅鏡は鋳造の質は高く,銅質が好く錫が多いから,色は銀のように白く,文様は自由奔放,伝統的な円形鏡のほかに,多種の花弁形の鏡が製作され,螺鍋象嵌・金銀平脱などの新技法も現われた。これらさまざまな手工芸品中の逸品は唐代手工業工人の高い智恵と熟練した技巧をあますところなく示している。
中国は印刷術を最初に発明した国である。9世紀,木版印刷術が普及した.印用1術の発明後,中国からしだいに世界に伝播した.印刷術の発明は世界文化に対する中国人民の, もう一つの偉大な貢献であった.
有名な科学者,張遂(―行和尚)は命を受けて改暦の仕事を行う過程で,黄道の座標を直接に測量できる黄道遊儀を造った。二十八宿(天球を28に区分したもの)の天球北極からの度数の実測を通して,恒星の位置が変動する現象を世界で初めて発見した,724年,彼の行っていた実測により,子午線の1度の長さを算出した。その数字は完全に正確とはいえないが, しかし子午線を測った世界初の実践であった.
中国伝統の医学中医と中薬学は当時すでに内科・外科・小児科・耳眼咽喉歯科などに分かれて治療することができ,針灸と接摩の医術は相当流行していた。大医学者,孫思遜は畢生の精力を尽くして『千金方』30巻,『千金翼方』30巻を著わし, 後人は彼のことを薬王と称した.659年唐朝公布の,蘇敬らが奉命して編んだ『唐本草』は,合わせて844種の薬物を記録しており, これは世界最初の国定公布の薬典である。 ―
唐の支配者は道教を提唱し,外来の宗教に対しても一律に受け入れた。中国と西方の交通が発展するにともなって,西の夜教(ゾロアスター教)・景教(キリスト教ネストリウス派)・マニ教・イスラム教が相次いで入ってきた.中国仏教はすでに当時異なる宗派に分かれ,主なものに,天台宗・法相宗・華厳宗。禅宗などがあった。629年,僧玄装は長安を出発して西へ旅し,今のアフガニスタン・パキスタン・ネパール・ベンガル・インドなどを訪間し,仏教経義を学び研究して,645年に長安に戻った.彼は仏典657部を持ち帰り,また旅の見聞に基づいて『大唐西域記』を書きあげた.玄装の西行は中国と南アジア諸国の文化交流に有益であった。
唐代の文学, とりわけ詩は中国文学史上大変重要な地位を占める。今日に伝えられているのは2,200余の詩人の5万首に近い詩である.唐詩は豊富な社会内容を反映する点で,また美しく完成された芸術スタイルの上で,前代を越える成果をあげ,人口に膾灸し,生命力に富んだ多くの詩篇を生んだ.盛唐期の李白・杜甫・白居易らはロマンチシズムとリアリズムの詩芸術を頂点に登らせ,唐体に並び屹立する偉大な詩人となった。
唐代,石彫・泥塑・陶塑などの秀れた彫塑芸術作品が多く残された。石窟造像・彩塑といい, 陵墓前の石彫,副葬の陶俑といい, どれもが雄健奔放・豊満美麗・意気軒昂の時代精神をはっきりと示している。敦煌莫高窟現存の480窟のうち,唐のものは213窟あるが,芸術水準は最上の部類に属する。洛陽龍門石窟の唐代造像,特に奉先寺舎那仏像墓を代表とする群像彫刻は気宇壮大で入念な彫顔である.主像廬舎那仏は高さ17.14メートルに達し,面容は豊満にして秀麗,両の目は静かで慈愛にあふれている。その両脇の迦葉は厳粛で重々しく,阿難は温順敬虔,菩薩は端正で慎しみ深く,天王は眉をよせて目を怒らせ,力士は雄々しく勇ましい.群像の配置・形象の塑造・表情の彫りなど,みな形も精神も兼ね備わった効果をあげており,唐代彫塑芸術の高い完成度をよく示している.
唐三彩は陶塑芸術の代表である.造形は本物に似て,色彩は艶やか, 人物の姿態は真に迫り, 駱駝・駿馬は生けるが如く,内外にその名を馳せた美術品である.
唐代の絵画はリアリズム精神に大変富む.画家は唐朝の大きな功業と社会の様相を充分に表現し,その作品の風格はあるものは「満壁風動き」,あるものは「燦爛として備わるを求め」,極めて高い水準に達した.壁画は唐代絵画芸術中の重要な一部分であり,またそのうち墓室の壁画が多くを占める.近年発見された多くの唐代墓室壁画のうち,主なものは李寿墓・鄭仁泰墓・阿史那墓・章懐太子墓・懿徳太子墓・永泰公主墓などで, これらの墓室壁画は数量・描かれた内容ともに非常に豊富である.章懐太子墓と懿徳太子墓の完全な壁画だけでも, これを合わせると700余平方メートルの面積に及ぶ。これら墓室壁画は古代中国の地下画廊となっている.
絵画芸術と肩を並べるのが書道芸術である.伝統の篆書・隷書・草書・行書のほかに,楷書も円熟した。欧陽詢・褚遂良・顔真卿・柳公権・張旭・懐素など多くの有名な大書家が生まれた.多くの墓誌銘は民間の書家の作であるが,同様にすばらしい芸術水準を示している.
唐代は古代中国の対外文化交流の盛んな時代であった.アジア・ヨーロッパ・アフリカの諸国と経済文化の往来があり,中外関係史の上にひときわ輝かしい1ページを書き残した。漢代に拓かれたシルク・ロードは中外文化交流において,ますます重要な役害」を果たし,「文化の運河」と譬えられた。シルク・ロードは,中国人民と各国人民の平和往来の足跡を残し,中国文明と世界文明の発展に不滅の貢献をしたのである,
唐代, 中日両国の友好往来は新たな段階に至った。唐朝,少なからずの使者・僧侶・商人・工匠が日本に行ったが,その中で最も有名なのは鑑真和尚で,彼は6度も海を渡ってようやく日本に着き,中日両国の文化交流に貢献した.日本の朝廷が組織した大型の遣唐使の到来は,前後19回あり, 1回に数百人の多きに達した。随行する者に工匠・商人・学問僧・留学生などもたくさんいた。彼らは長期間,なかには終生中国に留まり,中国人民と厚い友誼を結び,中日文化交流と善隣関係に貢献した。鑑真と阿倍仲麻呂の名は中日人民の友好のシンボルである.1970年映西省西安出上の日本の銀貨「和同開弥」,1972年日本奈良県高松塚出土の見事な壁画と海獣葡萄鏡,奈良の正倉院秘蔵の唐代渡来の宝物群は,いずれも中日文化交流の証拠である.黄河の水は日本に通じ,中日両国は一衣帯水の友好の隣邦である.
唐以後,政治の重心がしだいに移ったこと,また南方の経済が急速に発展したことにともなって,中原の中心的地位はしだいに変化を来した。しかしながら総じていえば,黄河文明は依然として向上発展した.中国古代「四大発明」
中の三大発明一―火薬・活字印刷・羅針盤(四大発明のもう一つは紙)が宋元時代に生まれたり,新しい発展を見せたりしたことがその証明である.
ここまで書き終えて,われわれは,断片的な文献の引用と限度ある数組の文物を通して,黄河文明の全体を説こうとすることは徒労であることに気がついた。なぜならば,中国古代文明の象徴としての黄河文明は,比べるものがないほど内容豊かだからである。ここでは,黄河文明を世界のほかの文明と比較をして,古代世界の文明における黄河文明の地位を明らかにすることもしなかった.黄河文明は先祖たちが長い長い歳月の中で,不院不屈の精神で血と汗,智恵と労働でもって創造してきたものである.われわれは, このことだけを明らかにしたかったのである。他の諸民族と同様,中華民族は自らの優秀な資質と伝統を有している.かつて歴史上に自らの智恵と力をもって人類の進歩のために相応の貢献を果たしてきた。「四大発明」の如きは中華民族が世界文化の宝庫に献納した珍宝である.
歴史を通観すると,各民族はそれぞれ各自の発展のコースをたどっている.黄河文明は,黄河流域に独立し発達してきた偉大な文明である.同時に人類社会の進歩,世界各国各民族の文明の発展は,各々異種文化の相互の影響に依存する。世界各国人民の間の友好往来と経済文化交流は,人類社会発展を促す重要な要素である.黄河文明の果実は外国の人民との友好往来と文化の交流を通して世界に種まかれ,同時に他の多くの長所を広く採り入れ,戒めとする中で外来文化の栄養を摂取して, 自己を一層充実させていったのである.
黄河は東流して去り,文化は世を済って長し.黄河の誇るに足るあの過去は美しい未来を建設する巨大な力となるであろう。
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